昭和56年8月20日 朝

御理解第62節
 昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心もしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。



 難しい御理解ですが。人もよけれわれもよけれ、人よりわれはなおよけれと。言うことはどういうことなんだろう。自分が助かる。そして人を助けてやれれるということじゃないでしょうか。ね。自分の事と、下り坂は急がんものはないと。言うようなことを申します。だから、自分さえよけれといったようなものであったり、自分の事だから急ぐのだといったようなものではなくて。人よりわれはなおよけれということは、ね、そして、後に人を助けてやれとおっしゃるのですから、人が助けれるようになるということ。人よりわれはなおよけれということは、ね、そこに助かってない人を見たら、それを助けて行けれる身にもなれよと。そういう信心が出来て行くところから、ね。にわかに先生にはなれんといわっしゃる。一段一段、なら、先生とも言われ、呼ばれるようなおかげにもなってくるわけでしょう。
 手習いも同じ事、一段一段とこうおっしゃっておられる。ね。一段一段おかげを頂いて行くと言うことは、一段一段、人を助けてやれる働きというものが、成就していくとでも申しましょうか。
 (   の時に)先生方に聞いてもらった事でしたけれども。行橋の堀内さんの信心ぶりというものを思うてみるときに、人がどんどん助かる。その堀内さんのお参りになった時に、必ずお取次ぎを願われる事は、大きな、特別大きなお初穂袋に、こう肩書きに肩に書いてあることはね。私にかかわる一切しゅじょうの助かりと書いてあります。私にかかわる全ての人が、ね、助かっていく。それは私に対して、ね、プラスになる人も、考え様ではマイナスになる人も、私の事を誉めて下さる人もありゃ、悪口を言って下さる人もあるかもわからな。
 けれどもその、関り合いの出来てくる一切のしゅじょうを助けたまえというのである。私にかかわる一切の、一切しゅじょうの助かりを願います。
 今までは(    )信者さん方が皆堀内先生、堀内先生とこう、言うならば先生と、教師の資格を持たんのだけれども先生と呼ぶ。もう呼ばずにはおれんのである。ね。おかげを頂くから。ね。人もよけれわれもよけれ、人よりわれはなおよけれということは、そういう願いが持てれるという事だと思うね。
 勿論そこには自分の助かりというものがある。いろんな問題、いろんな難儀というものを、もう言うなら、乗り越え乗り越えしておる。昨日、総代さんの秋山さんがお参りをして、最近私分らん事がございますという。どういうことですかっち言うたら。最近、過去の宗教の亡霊とか、亡魂とかっていったような話がでる。先日テレビを見せてもらいよりましたら、おいわ様の映画が、テレビがあっておりました。いわゆる四谷怪談である。あのように、例えばよつわと、家んもんとの夫婦の間にです、ああいう言うならば仕打ちを受けたらそれこそ、亡魂になってでもその恨みを晴らさずにはおかんというような恨みというものが残って、亡霊というものがやっぱあるのであろうか。親先生は無いと言われる。
 ね。あるのはあれは、神様の演出なんだ。トリックなんだ。こんなに人を虐めたりこなしたりしよると、ね、それが死んでから亡霊になって出てくるぞと。まあ言うなら、仏教的な輪廻とか因縁といったようなことからの一つの観念説である。
 なら、お芝居なんかにでもそうです、ね、それこそめぐりめぐって(     と)そんなふうに申しますね。良い事をすりゃあ良い、悪い事すりゃあ悪い事が必ず起こってくるのだと。そういう説から、まあ結局あらゆるお芝居なんかがおもしろ出来るわけなんですけれども。
 (    さんもね)これは合楽理念の中の御霊観です。ね。けして亡霊とか亡魂とかというものは、実際にはいないのだと。けれども、天地の親神様が演出をしなさる。私もまだ親教会に朝参りをさして頂いておる時に、もう間違いなくこの目ではっきり幽霊を見たんです。私は。ですからそれが、ないじゃないけれども、それはどこまでも天地のトリックなんだと。それは、それこそ千年万年かかってもそれこ億年かかっても、言うならば人間世界に幸せをもたらせたい。丸うせずにはおかんという天地の働きが、ね、そういう言うならば、おばけとか、または幽霊とか亡魂とかいったようなものを神様が丁稚上げなさるんです。作んなさるのだ。
 そして、悪い事しよると今度お化けに会うぞとか。ね。この人、その恨みをこの世に残して言うならば、行くところに行かれずにこの、亡霊になって迷わなんならんとか。といったような、まあ観念をね。だから、おいわのように、ああいう仕打ちを受けたらそりゃ幽霊にでもなって祟らなければおられまい。けれどもそれは、仏教的な考えからくるのだよと。そりゃ私もよくは分らんけれども、もしどうでしょうかね、秋山さん。おいわさんに、金光様の信心、特に合楽の信心をもし頂いておられたとしたら、あの人はそうに徳を受けたろうと私は言うて話した事でした。
 これは今のお話にでておる、堀内なんかでもそうです。ご主人との間にいろんな女性関係なんかもあった。けれどもその受け方が素晴らしいもん。ある時お酒を沢山飲まれるから、バーから女子しとそのおかみとがどうでもこうでも、集金にきた。それで、もう飲ませてくれなさんなと言うのに飲ませるけんわたしゃしらんばのと、普通なら言うところでしょうけれども、いつも済みません、ご迷惑をかけてと。もう必ず私が払いますと。今は払えません。ちょっと私の方のこの冷蔵庫ば見てくださいと。
 もうこげなん状態ですと。もう空になっとった。丁度。ね。だから必ず私が払いますから、あの、どうぞ主人がまた来たならば、まあ飲ませても下さいというような言い方であったと言う。もう、そこのおかみがもうホトホト感心して、もうあなた方のところはもらわんでよかちゅうごたる状態になった。勿論払われました。払われましたけれども、あのそういう心の状態で受けて行けれるというのですからね。神乍らなおかげを頂いて、そのお支払いが出来ていく。
 ね。どんなに警察に呼ばれなさる事があっても、どんなに主人が例えば、まあ普通の女性であるならば、相手の女子しに掴みかかってでもいこうごたる心の起こるようなところをです、もうそれこそ信心で受け切って行かれるというのですから。もし、おいわさんが堀内さんのようであったら、おいわさんはそりゃあ、自分も徳を受けて周囲に人が助かり、勿論家も助かっただろうというような、まあ話をさせて頂いた事でしたけれどもね。
 ほんとに、金光教の信心、合楽の信心ごたっとば、皆頂いたなら、忠臣蔵も出きらなければ、先代萩もできないわけですよね。世の中がおもしろなかごとなるかもしれんというて、まあ昨日研修の時に話した事です。ね。いっちょん問題がないもん。おかげおかげと頂いていくもんじゃけん。昨日は、上野先生がここで、親先生、今日は丁度、先日お取次ぎをさせて頂いた、砂漠を旅するようなものだと。十三年間というものは苦しかった。苦しかったけれども親先生から頂いておった御理解が支えになって今日では今がオアシスであろうかというようなおかげを頂いておるというお取次ぎをさせて頂きましたが。やっぱ浮羽郡のあちらの方の地方から参って来た方で、それとはまったく反対の今日はお届をさしてもらったと言うてここでお届をするんですよ。
 お嫁さんが妊娠のおかげを頂いて、坐骨神経痛で大変難儀をしておる。ばばさんがどういわっしゃるかと言うと。ね。妊娠したらちっとどうかあるばの。というような言い方である。もう一事が万事に話しを聞くと、もうほんとに問題が問題を生んでいきよる。そこで、今度里に帰られると、里の方でそれがまた問題になって、そげなんこと言うごたるとならと言うて両家の争いということになる。もう結局は半狂乱のようになって嫁さんが出刃包丁を振り回して、言うなら傷害事件でも起こりかねないような状態で、どうか金光様助けて下さい。先生助けて下さいと言うてあそこでなかせよったげなもん。
 どげんして助けるのっち言うて。いくら金光様でもそこまで、言うなら、乱れに乱れ、険悪になっておるものを。ね。言うならば、先日お取次ぎをさせてもらったのとはまったく、ね、そこを信心で頂いていってこうしたらおかげになる。家庭も円満であろうけれども。ね。もうとにかく、きらばつこと言ったような仲というものがです、まあそれこそよつや怪談でも、なようなものが出来る。かねないような状態のお家があるということでございます。世の中には多いでしょうね。
 けれどもここにね、ほんとに言うならば、助かりを得て、言うなら堀内さんじゃないけれども、私にかかわりあう、それは良い悪いどんな人でも。ね。それこそ、相手に掴みかかってでも、普通で言うなら、いただけんような人の上にでも私との関わりあいにあいてどうぞその人が助かるようにという願いなんです。一切しゅじょうが助かってまいりますようにと。けれども私、金光様のご信心はね、ここまで、この辺のところが言うならば、一段初めからなかなかできません。けれども信心も手習いも同じ事ですから、絶対のものを焦点をそこにおいてそれに向かって一歩ずつでも近づいていく日々の精進がいるのだと。
 そこに、人もようなからにゃならん、自分もようなからにゃならん。自分の人よりもっとようなからにゃきゃならんというのは、ただこう我情我欲的なものではなくて、ね、そして、後に人を助けてやれとおっしゃる。その、そして後、自分が助かると言うことは人が助けて行けれるような働きが出来ると言うことだというふうに私は今日は思うんです。ね。あなた方に関わりあいのある一切しゅじょうが、ね、助かっていくようにという。そういう祈りが持てれるという事。
 ね。そこに、精進、焦点をおかなきゃね。ある意味合いではです、今申しますように、皆が金光様の信心するようになったら、世の中では問題がなくなってくるだろう。今上野先生がお取次ぎさせて頂いたというのは、もう問題にもならないような事が問題になって、問題が問題を生んで、それがこう広がっていっておるということです。ね。ですから、金光様のご信心すればね、確かにもう問題が、問題は皆自分の血肉にしていく。問題は皆信心で頂いて行く。
 だから問題もその場でプツッと切れてしまう。あるものは神愛だけだと。言う頂き方ですからね。ね。その代わり、今申しますように、忠臣蔵やら先代萩のごたる、言うならお芝居は出来ませんです。金光様のご信心。ね。一段一段信心を分る。言うなら絶対のところに信心の焦点を置いて、ね、私どもが信心の稽古をさせて頂いて、人よりわれはなおよけれというおかげを頂きたい。そして、人が助けれるような身分にもお取立ても頂きたい。どうぞ。                                                   (ゆきこ)